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ランプを灯し・井戸水を飲んでいた時代

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寄席での興業が大きな楽しみだった頃

明治25年、香川県から高岡縫殿を代表とする11戸48人の移民団[貫誠社]が塘路に入植しました。熊牛村に集団ではじめて開拓の鍬を打ちおろした人々です。
当時の農村は不景気がが続き、貧しさから逃れるために新天地をを求めて移住する農民が少なくありませんでした。
貫誠社の人々も西洋式の製糖機の輸入の圧迫で生活が苦しく、家や畑を売って、食料とさとうきびの製糖の機具をたずさえはるばる来道したのでした。
熊笹の生えた密林で、しかも熊がいつ出没するかわからず、虻や蚊にも悩まされる毎日です。
そのうえ寒さも予想以上に厳しく、さとうきびの栽培は無理なことがわかりたいへん落胆しました。
しまいには火災で食料も農具や機具も焼失し、わずか半年で夢破れ、解散してしまいました。

一方、市街地は釧路集治監が置かれてからどんどん活気がみなぎり、町並みも形成されていきました。
その頃太田村からはじめて訪れた人は「こんな立派な町があったのか」と驚いたそうです。
にぎやかだったのは表通りだけで、裏通りはさほどでもなかったようですが、明治27・明治28年には料理屋や飲食店が16~17軒もあったと伝えられています。

標茶市街大通(昭和初期)の写真

標茶市街大通(昭和初期)

集治監の看守は独身者が多く荒りょうとした原野の中に赴任し、職業も特殊な世界だったので殺ばつとしていたのでしょう。
市街で一番繁盛したのはこれらの料理屋・飲食店と湯屋や寄席だったといわれています。
寄席は開運橋の4つ角付近にあり人形芝居や猿芝居・仙台坊という祭文語りなどが行われました。
壮士芝居の川上音次郎一座が興業に来た時、オッペケペ踊りが大流行。
その際おこなわれた楽隊の町めぐりは標茶はじまって以来のことでなかなかの人気でした。
料理屋兼宿屋で一番大きかったのは「大平」で、当時にはめずらしく湯屋床屋も兼業しており、三階建ての堂々とした建物でした。次に大きかったのが丸井旅館です。
また酒造業が二軒あり、明治30年には清酒をおよそ百五十石、濁酒六石、焼酎三石を生産したといわれます。
明治33年に寄席は焼失していましたが大正時代、たまたま個人の家で旅芸人が祭文をかたったり手踊りをするとうす暗いランプの下で大人も子どもも喝采して喜びました。
現在の図書館のそばの佐々木勇作旅館では蓄音機が置かれ、二銭出してゴム管を耳にはさんで円筒形のレコードから流れる音を楽しんだそうです。

パラソルにはでな文字を書いて風変わりな姿で歩く万金丹売りや、薬屋の手風琴を見かけると子どもたちがゾロゾロとついて歩いたものでした。
また、年に一回開かれる競馬や運動会、川上神社の祭りが、もっとも大きな行事で多くの人でにぎわいを見せました。
憲徳寺の報恩講に着飾って参詣するのも、女の人たちの楽しみでした。
大正時代の服装は、男の人はハンテンに乗馬ズボン、女の人は銘仙の着物にモンペで働いたそうです。
はき物はゲタかぞうりで、冬はワラで作られたツマゴをはきました。
足に赤い小さな毛布をぐるぐる巻いてツマゴに入れたり、布を三・四枚重ねて糸で刺し子のようにしたもので作ったボッコ足袋をはいたりしました。
当時はゴム靴も短靴しかなく、ゴム長靴はあまり普及していません。

原野に次々と開拓者が入植した

市街地の活気をよそに、標茶の各地域では数々の困難と戦いながら開拓に励む姿がみられました。
塘路入殖した貫誠社の後も、下久著路、瀬文平ひ、中御卒別、久著路、阿歴内、磯分内、茶安別、上御卒別、沼幌と大正時代次々に開拓の鍬が打ちおろされました。

阿歴内に入殖した人々の生活を例にとると、最初につくった小屋は外側をバッタで囲み屋根は茅葺きで、中に大きな炉を設けて木の根を燃やして暖を取りました。
煙はすきまから出ていくのでそれほど苦になりませんでしたが、寒くてやりきれないときは炉の火を外へだしてその上に板を敷き、布団を上に敷いて寝ました。

あかりは焚火で間に合わせ、早めに床についたそうです。
夜はフクローがなき、近くには熊の足跡が無数にあり、心細い思いをしました。
狐などは昼間から目につき、カラスに弁当を風呂敷の中からとられたこともありました。
こうした苦労をしながら、広大な熊牛村の原野は次々と開墾されていったのです。
集団入殖をしたそれぞれの地域の開拓の特徴を紹介しましょう。
久著呂の青山奥左衛門の農場では、郷里の福井県からたくさんの小作人をつれてきて開拓にあたりました。
続いて徳島県から約80戸186名の大規模な移民団が入り、さらに久著呂川上流に宮城県からの団体が入地し開墾がすすみました。

御卒別平林甚輔の農場は個人経営の大農場方式がとられ、小作人のほかにたくさんの朝鮮人を使って、農耕のほかに馬産や養豚もおこなっていました。
阿歴内では馬の神様といわれた神八三郎の指導のもとで、馬産に力を入れるとともに、木炭を生産し釧路に運びました。
福島県から沼幌に入植した移民は標茶でもっとも米作りに励んだ人々で、戦後まで続けたといわれています。

昭和初期には、虹別に全国各地から募った許可移民が入りました。
昭和4年に第一回移民170戸が釧網線標茶駅に下車すると、標茶市街はこの移民集団を迎えてたいへんな活気だったそうです。
移民たちは子どもを馬ぞりに乗せ、自分たちは歩いて虹別原野に向かいました。
十町歩の土地を割り当てられ、耕馬2頭雌牛2頭、羊、豚、鶏などの貸付を受けて開拓に努めたのです。

もの不足、食糧不足に耐えた日々

植者の努力によって標茶は次第に農村としての広がりをもち発展を遂げてきました。
しかし、時は流れ、やがて昭和12年の日華事変、昭和16年の太平洋戦争(第二次世界大戦)が起こり、いやおうなく戦時体制へと入っていきました。
戦争がすすむにつれて村民をおびやかしたのが主食の統制です。

米ばかりでなく、大麦、小麦、裸麦、雑穀、澱粉、そば、馬鈴薯、鶏卵、野菜から果実まで食糧のほとんどが公定価格となりました。さらに主要食糧の自由販売が禁じられ、配給されることになり、年齢によってその量も定められました。
そして年を追うごとに米の配給量は減り、麦類や雑穀類などが増えていったのです。
配給は月2回。標茶・磯分内・塘路市街は5日以内、他は7日以内に配給を受けその期日まで受け取らない場合は配給を禁止するという厳しいものでした。
砂糖は購買券と引き替えで量も決まっていましたが、昭和19年に家庭用の砂糖は配給を停止。
酒も割等制で、購入先が二軒以上の場合はその店の捺印をして役場に提出しなくてはなりませんでした。

綿製品の製造販売も制限され、衣料切符制がとられるようになり点数制でその点数内でしか衣料品を買うことができなくなりました。
さらに鉄製品、燃料など軍需資材と関係の深いものが統制されています。
燃料も部落方面はたきぎに不自由しませんでしたが、石炭を使用する家庭では割当てを通帳で購入し、量も少なかったため寒さにふるえて耐えるよりしかたがないありさまでした。
ストーブや煙突も不足し、代用に土管を使いましたがそれを支える針金さえ手に入りにくく、古針金や古釘を利用したどかんえんとつがあちこちで見られました。
石油も各戸割当てで、しかも空き缶と引替えでした。容器をもっていかないと、配給を受けれなかったのです。
ローソクやマッチも配給制です。ゴム製品も使用が制限され、村民生活でもっとも需要度の高いゴム靴や地下足袋などは入手不可能でした。
男たちは戦争にかりだされ、標茶に残されたのは老人や女・子どもばかりでした。

昭和初期には、虹別に全国各地から募った許可移民が入りました。
昭和4年に第一回移民170戸が釧網線標茶駅に下車すると、標茶市街はこの移民集団を迎えてたいへんな活気だったそうです。
移民たちは子どもを馬ぞりに乗せ、自分たちは歩いて虹別原野に向かいました。
十町歩の土地を割り当てられ、耕馬2頭雌牛2頭、羊、豚、鶏などの貸付を受けて開拓に努めたのです。

もの不足、食糧不足に耐えた日々

植者の努力によって標茶は次第に農村としての広がりをもち発展を遂げてきました。
しかし、時は流れ、やがて昭和12年の日華事変、昭和16年の太平洋戦争(第二次世界大戦)が起こり、いやおうなく戦時体制へと入っていきました。
戦争がすすむにつれて村民をおびやかしたのが主食の統制です。

米ばかりでなく、大麦、小麦、裸麦、雑穀、澱粉、そば、馬鈴薯、鶏卵、野菜から果実まで食糧のほとんどが公定価格となりました。さらに主要食糧の自由販売が禁じられ、配給されることになり、年齢によってその量も定められました。
そして年を追うごとに米の配給量は減り、麦類や雑穀類などが増えていったのです。
配給は月2回。標茶・磯分内・塘路市街は5日以内、他は7日以内に配給を受けその期日まで受け取らない場合は配給を禁止するという厳しいものでした。
砂糖は購買券と引き替えで量も決まっていましたが、昭和19年に家庭用の砂糖は配給を停止。
酒も割等制で、購入先が二軒以上の場合はその店の捺印をして役場に提出しなくてはなりませんでした。

綿製品の製造販売も制限され、衣料切符制がとられるようになり点数制でその点数内でしか衣料品を買うことができなくなりました。
さらに鉄製品、燃料など軍需資材と関係の深いものが統制されています。
燃料も部落方面はたきぎに不自由しませんでしたが、石炭を使用する家庭では割当てを通帳で購入し、量も少なかったため寒さにふるえて耐えるよりしかたがないありさまでした。
ストーブや煙突も不足し、代用に土管を使いましたがそれを支える針金さえ手に入りにくく、古針金や古釘を利用したどかんえんとつがあちこちで見られました。
石油も各戸割当てで、しかも空き缶と引替えでした。容器をもっていかないと、配給を受けれなかったのです。
ローソクやマッチも配給制です。ゴム製品も使用が制限され、村民生活でもっとも需要度の高いゴム靴や地下足袋などは入手不可能でした。
男たちは戦争にかりだされ、標茶に残されたのは老人や女・子どもばかりでした。

火のし(いまのアイロン)の写真

火のし(いまのアイロン)

昭和18年から徴兵適齢が19歳まで下げられ、女子青年まで動員して女子班も編成されました。
そして、ついに昭和20年8月15日、日本は戦争に敗れ終戦。
ポツダム宣言受諾の天皇陛下の玉音放送が流れましたが、性能の悪いラジオが大半で、雑音や混信でよくききとれず村民は半信半疑で「まさか」と思いながらもそれを口にすることははばかられました。
新聞やラジオで敗戦後の情勢が報道され、釧路に占領軍が来駐したうわさを聞いて敗戦を実感する人が少なくありませんでした。

応召兵見送りの広瀬村長の写真

応召兵見送りの広瀬村長

保健所と国保病院の設置

終戦後軍馬補充部川上支部の建物を利用することは村の発展のためにも急がれました。
村では農学校の設置とともに、ここに保健所を置く運動を開始し、昭和21年標茶保健所が設置されました。
最初予定されていたのは軍馬補充部時代の医務室でしたが、改修工事中の失火で焼失してしまいました。
すでに入荷していたレントゲン機械などは駆けつけた高校生によって運び出されて難をのがれ、代わりに病馬廐舎を改修して保健所として使いました。
その後、昭和26年に新築庁舎が完成。検査試験室、栄養室、診療室、レントゲン室、性病検診室、映写室、図書室などを備えたクリーム色の明るい保健所が誕生しました。
標茶の医療機関でもっとも早くからあったのが集治監内の医務所でした。明治19年に公立標茶病院が設置されましたがこの病院は集治監内の病院から分離独立したものだといわれています。

公立病院の廃止後は拓殖医が派遣され診療にあたりました。標茶に村立診療所ができる昭和19年までは、医師の交替が相次ぎ、一時的に無医村状態になったことも何度かありました。
昭和24年、健康保険組合直営診療所が設置され、医師や設備の充実も図られて昭和29年には国保病院となりました。
しかし、この二年後ストーブの過熱がが原因で国保病院の半分を焼失。
翌年復旧工事を完成し、病床80床を収容する地方の基幹病院として、町民の健康を守る大切な役割を果していきました。
また、昭和35年には塘路に開拓診療所ができ、地域の人々もやっと安心した日々を送れるようになりました。

町民の暮らしも年々便利で快適になり、昭和46年には市街地の電話が自動化、翌年から上水道の給水も開始されています。
その後、憩の家「かや沼」、プール、テニスコート、野球場がオープンするなど、町民生活にゆとりとうるおいを与える施設が増え続けています。

当時のミス標茶の写真

当時のミス標茶

お問い合わせ先

標茶町役場 総務課デジタル推進係
〒088-2312 北海道川上郡標茶町川上4丁目2番地
TEL 015-485-2111 FAX 015-485-4111

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