寒さと戦った亜麻とビート
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全道一の生産量を誇った安田硫黄山
イオウのにおいをあたりに強くとき放つ川湯の硫黄山。
熊牛村外四ヶ村として当時同一行政区域内にあった屈斜路村の跡佐登に、良質な硫黄鉱があることを知った佐野孫右衛門は、明治9年に採鉱を開始し、翌10年に本格的な経営にのりだしました。
明治18年にこの事業を譲り受けて経営をはかった山田朔郎(函館で山田銀行等を経営)は、釧路集治監の囚人を借りて翌明治19年から硫黄の採掘をはじめました。
しかし採鉱、製錬、搬出、輸送を一貫して行うには大きな資本が必要で、安田系から受けた融資もけっきょく返済困難になり、硫黄鉱を安田善次郎にゆずりました。
明治20年、日本有数の銀行家として知られた安田善次郎は経営にあたり、まず硫黄を運ぶ鉄道工事の開始をはじめ、標茶に近代的な製錬所を建設しました。
また1時間30分で硫黄を溶解する性能をもつ近代的な設備と輸送能率の向上によって、その生産量は全道一となりました。
しかし、近代的で機械化した採掘方法は皮肉にも鉱山を掘り尽くすことになり、原料の不足から品質低下を招いてついに明治27年に採鉱を中止。2年後の明治29年には廃鉱してしまったのです。
また、安田善次郎は明治20年、栃木県に下野麻紡繊株式会社を創設しています。
道庁はこの事業に意欲を示し、農商部に亜麻課を設けて耕作に力を入れ川上郡でも生産がおこなわれました。
そしてこの工場の原料工場であったといわれる「亜麻(あま)製造合資会社」が、明治29年熊牛原野に設立されています。
しかし、この会社は原料不足と経営者大塚要吉の急死によって、わずか2~3年で失敗に終わりました。
恵まれた水に育まれた漁場
西別川の上流は、清らかで水質がよく、古くから河口をさかのぼる鮭の大群がみられました。
西別川の鮭は味もすぐれており、徳川時代に松前藩は将軍へ献上していたとも伝えられています。
また明治の初めには鮭漁の濫獲を防ぐため官史が水源付近に駐在したそうです。
明治23年、虹別に水産ふ化場が設置されました。このふ化場は千歳ふ化場と並び称され、本道の二大ふ化場として知られてきました。
今では、“獲る漁業から育てる漁業へ"とその重要性が認識されてきていますが、開拓時代の初期でしかも交通の不便な地に、ふ化場が設置されたというのは高く評価されることです。
一方、塘路湖の水産が注目されはじめたのは、釧網線の開通からです。
昭和3年に塘路漁業組合が設立され、加工品の品質向上をはかるため、昭和5年にワカサギの製造加工講習を開催しています。
この年の北海道拓殖博覧会では、出品したワカサギの佃煮が優良品として賞状を与えられています。
昭和7年頃塘路湖南岸に加工場が建てられ、製品は道内はもとより、東北や東京、さらに満州国にも販売され好評を博しました。
また、この組合は北海道さけますふ化場の指導でワカサギとウナギの養殖事業をおこなっており、発育成績も順調でした。
マッチの軸を生産した明光社
明治27年、釧路川東岸の硫黄製錬所の近くに明光社が設置されました。マッチの軸木製造工場です。
日本でのマッチの使用は明治の初めからで、明治10年頃までは多くを輸入にたよっていました。
軸木の材料(ヤマナラシ、ドロノキ、シナノキ)に恵まれた北海道に次々と工場が建てられ、明光社が設置された頃、全道に41ヵ所の軸木工場があったそうです。
明光社は男女50人を使用し、7.5馬力の蒸気機関を備えていました。
しかし、冬の寒気の厳しさで機関が凍結して休業せざるをえなかったり、原木を白楊樹に限られて品不足となって生産費が高くつき、事業不振におちいりました。
そして、明治31年に工場は閉鎖してしまいました。
工場が次々に設立
第一次世界大戦後、砂糖は世界的な不足で輸入がとだえ、価格がはねあがりましたが、需要は増す一方でした。
市場拡大がのぞまれ甜菜糖業が脚光を浴びはじめたのです。
その結果、生産の適地として北海道が着目されました。
標茶村では根釧原野が甜菜栽培の適地であると、製糖工場の誘致運動を開始しました。
この運動が実り、昭和11年、磯分内に製糖工場が建てられました。
北海道製糖磯分内工場(昭和11年)
製麻工場は当時軍需的性格が強く、国際関係が緊張するたびに需要が増しましたが、逆にその反動もいちじるしかったため亜麻会社は明治以来ひんぱんに設置や統合がくり返されていました。
大正9年に標茶に設置された製線所は、大正製麻会社の工場でした。
北海道は第一次世界大戦後、亜麻の作付け面積が大幅に拡張しました。
昭和13年、標茶に大正製麻標茶製線所が設けられ、操業を開始しています。
亜麻の日干し作業
この地に適した農業を模索
開拓使事業報告の中に「明治4年に佐賀藩支配中塘路村に麦や蕎麦をまいて試験をし多少収穫が合ったが、佐賀藩の引き上げ後は収穫するものがいない・・・」と書かれてあります。
これは熊牛村の農業についてのもっとも古い記録です。
集治監が建設されてから急速に移住者が増えましたが、明治26年以前の農業移民はなく、この年に初めて一戸、翌27年に十四戸を数えています。
集治監が設置された初期の頃の野菜は、網走から購入または、硫黄山汽船で運ばれており、農業を営むひとはいなかったそうです。
熊牛村の農業は土地や気候の悪条件に対応する技術や経営能力を欠いていたのです。
明治25年に入植した香川県民の団体貫誠社や、30年に磯分内に入地した山梨団体の農耕開拓の失敗は、その例といえるでしょう。
このような困難な状態の中で、明治、大正を通じて一貫して作付し、その大半を占めていたのは、馬鈴薯と燕麦(エンバク)でした。
馬鈴薯は、農業移民の生命ともいえる主要作物。
また燕麦が熊牛村の主要作物になったのは、現地に対応する道である有畜農業への自覚の前触れだったのでしょうか。
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