道路のまん中で小学校の大運動会が開かれた
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集治監の構内にあった学校
標茶で初めてできた学校は、釧路集治監の構内に建てられた標茶簡易小学校です。
明治18年に設置された釧路集治監の看守の子どもたちのために翌年開校したもので、物置を改造したような学校に4~50人が通っていました。
教科は読書・作文・習字・算術の4科目で黒板も使わない昔ながらの寺子屋式でしたが、かすりの着物にゲタばきの子どもたちが元気に学んでいました。
安田硫黄山事務所が設けられ、次第に街並みも整えられていくうちにどんどん生徒数が増え、集治監の構内に学校があるのは教育上環境がよろしくないということで、現在の標茶小学校の場所に移転し、標茶尋常小学校と名を改めました。
明治25年のことです。
標茶小学校(明治35年)
一方、塘路にアイヌの子どもたちのための私立の学校が開かれたのが、明治28年イギリス人でキリスト教宣教師のアンデレスという人が開設したのでアンデレス学校と呼ばれていました。
イギリス人宣教師のバチラーがアイヌ語を話し、アイヌの人とともに生活したそうです。
直接授業をおこなったのは貫誠社を解散して塘路に残った高岡縫殿(たかおかぬい)で明治39年に廃校になるまで教えていました。
アンデレスは塘路に来ませんでしたが、イギリス人で釧路にいたペーン女史が時々訪れて、おもちゃや花の種を持ってきたそうです。
ペーン女史が「コレハナノタネ、アリマス」とカタコトの日本語で話しながら接するのを子どもたちはとても楽しみにしていました。
熊寄けのラッパを吹き吹き通学
明治34年、南弟子屈の旧亜麻会社の事務所に開拓に入った人たちの子どものために熊牛簡易教育所が、続いて四年後には青山牧場内に久著呂特別教授所が開校。
大正時代に入ると阿歴内、上茶安別、平林農牧場虹別、沼幌、上御卒別、上沼幌に教授場が置かれました。
これらは当時の開拓者たちが力を合わせて作った学校がほとんどで、専門の教師などいないので学識のある人に頼んだり自分たちが先生になったりして教育にあたったそうです。
どの開拓地も子どもの通学は楽ではなく、虹別の学校はアイヌコタンから6キロメートルも離れていて、草や笹が生い茂る道を歩くため、学校に着くまでに朝露で体がずぶ濡れになったこともめずらしくありません。
この道は熊の通り道でもあり、たいへん恐ろしい思いをしながら通いました。
中茶安別原野に入地した人たちは学校が近くないため、上茶安別の学校のそばに小屋を建てて子どもたちを住まわせました。
子どもたちだけで食事を作り、そこに寝泊まりして通学したのです。
いもや豆、いなきびなど食べ物は限られ、調理の仕方も悪いのでよくお腹をこわしました。
土曜日の晩には家に帰れますが、月曜日の朝早くには小屋へ戻らなくてはいけません。
子どもたちはなかなか行きたがらないので、叱って追いやり、熊よけのラッパを吹きながら嫌々行く姿を親たちは心を鬼にして見送りました。どちらもとても辛かったことでしょう。
この頃子どもたちの服装はカスリの着物にゲタばきで、カバンや帽子をもっている子はあまりいませんでした。
本や帳面は風呂敷に包んで、腰にしばって通学したのです。
大正時代の末から洋服やゴムぐつ、雨具にマントをみに着けるようになったそうです。
男の子は助け鬼、輪まわし、陣とり・・・女の子はお手玉、おはじき、あやとりなどで遊び、冬は歯のとれたゲタに金具をつけたゲロリというのをはいて、雪の上をすべるのが楽しみでした。
大正時代は運動会も盛んで、部落の人も総出で弁当を持って出かけ、地域ぐるみの行事のひとつでした。
グラウンドなどはなかったので徒競走は学校の前の道路でおこない旅人たちが道ばたで一服しながら見学するなどとてものんびりとしたものだったようです。
学芸会は卒業式の当日に実施し、演説や談話などなどをおこない唱歌を歌いました。
小学校から国民学校へ
釧路線の開通にともなって人口の急増とともに児童数も大幅に増えていきました。
中心地にある標茶小学校は大正10年には92名の児童が昭和8年には384名にもなり増築を重ねても教室の数が間にあわなくなるほどでした。
当時、標茶には学校が16校ありましたが、標茶小学校だけは8学級もあるマンモス校だったのです。
そこで昭和9年に標茶小学校が木造総二階の学校に新築されました。
床はすべてフローリングを用い、雨天競技場も合掌造りというりっぱな学校に生まれ変わり、村の人たちはびっくりするとともにたいへん喜びました。
まさに伸びゆく標茶を象徴する最新式の建物で同じ年、他の町村には例の少なかった実科女学校も設けられたのです。
ようやく昭和初期の不況から立ち直り、電灯電話が設置されるなど、市街の近代化も着々と進んでいきました。
しかし、日中戦争から太平洋戦争へと標茶も大きな歴史の流れに組み込まれていき、昭和16年に小学校は国民学校へと制度が変わりました。
戦争が長びくにつれて、学用品や文房具も割当配当になり、紙や白墨も不足しがちで、とくに困ったのがストーブや煙突、焚き付け、マッチの不充分なことでした。
燃料の薪は父兄の労力奉仕のおかげでなんとかまかないましたが、石炭は不足のうえ配給も遅れることが多く、粗悪炭のために子どもたちは煤煙にむせび、寒さに震えながら学んだといわれています。
食べ物も砂糖が配給制度になったため、子どもたちの唯一のおやつだったアメやキャラメルを口に入れることができなくなり、米の配給も減る一方で、空腹を満たすために空地でじゃがいもやかぼちゃが作られました。
子どもたちも農家に援農でかりだされ、朝早くから慣れない農作業でへとへとになるまで働きました。
また、葭のすのこや俵を作るため、ルルラン湿地に刈り取りに行き、みんなで葭を背負って列をなして運び、学校の廊下や屋内体操場で作業に励みました。
授業時間は一日2~3時間しかなかったそうです。
戦時中の子どもたちは、「ほしがりません。勝つまでは」を合言葉に食料不足や作業の手伝いなど厳しい生活に耐えていったのです。
青少年教育もますます強化され、村内の青年学校では男子は教練科と職業科、女子は家庭科で指導や訓練を受けましたが、やがてこれらがひとつの建物に統合されることになりました。
戦争中の物のない苦しい時期でしたので、村人たちから寄付金を募りみんなで協力しあって昭和18年に標茶青少年錬成場を作りました。
翌年、役場が焼失した時には臨時庁舎としても使用されたほか、青少年団壮年団、婦人会をはじめ、町内会の集会などあらゆる団体にひんぱんに使われ、終戦後の活発な公民館活動の素地となっていきました。
標茶高等学校の設置
昭和20年8月15日。日本は終戦を迎えました。
これにともなって郡馬補充部川上支部の解散後、広大な敷地は雑草が生い茂り、建物も窓ガラスは破れ荒廃する一方でした。
これらの建物と敷地を有効に活用するため、ここに農業学校が設置されることになりました。
さまざまな紆余曲折を経て、建物の模様替えや修理、電灯、水道などの許可や払下げの手続きをおこない、ついに昭和21年標茶農業高校が開校。
また敷地内の他の建物も保健所として利用されました。
昭和23年には学校教育法が実施され、働く青年のために定時制の農業課程がが設けられました。
その三年後に定時制分校として磯分内に夜間普通課程の磯分内高等学校が開設しましたが、日甜工場の酵母工場廃止により生徒が急激に減ったため、わずか7年で閉校しています。
また、この学校教育法によって学制が改められて“6・3制”となり、国民学校は小学校に。
さらに新制中学校が標茶、磯分内、阿歴内、久著路、虹別に設けられました。標茶町に教育委員会が設置されたのは、昭和27年のことです。
公民館・図書館
標茶青少年錬成場は後に公民館とあらためられ市街からではなく遠く各地域からも利用者が訪れました。
次第に各部落にも自由に集会のできる場を望む声が強まり、昭和25年から6年間に塘路や多和をはじめ各地域ごとに公民館分館が建てられていったのです。
一方本館も古く手狭になったため、昭和32年に新館が増築されています。
図書館活動は、青少年錬成場時代に村民から寄贈された古い本や雑誌などを子どもたちに貸し出していたのが、そのはじまりだといわれています。
後に公民館文庫として図書を充実し、大人たちにも貸し出され利用が高まっていきました。
各部落への移動文庫もたいへんな人気でした。
そして、昭和31年に道立図書館標茶分館が公民館内に誘致され、本格的に図書館活動がスタートしたのです。
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