軍馬補充部と馬産王国・標茶の新しい門出
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馬は古くから駅逓で活用されていた
標茶は馬産地としても古い伝統を誇っています。
釧路地方にはじめて馬が移入されたのは、寛政12年(1800年)。
当時、幕府は北海道東部の山道を開削して駅逓を設置し、馬を配して交通の便をはかっていました。
海産物の運搬や物資の輸送、常用として馬は不可欠な存在でした。陸路の発達とともに頭数も年々増え、安政元年(1854年)釧路場所には206頭の馬が数えられたそうです。
文久2年(1861年)から官馬に加えて、一般人にも飼育が許され民有馬が増えていきました。
明治10年には461頭、明治20年には2,395頭に達しましたが、これは川上郡跡佐登で採掘された硫黄を運ぶために、場所請負人の佐野孫右衛門が江差や白老などから優良な土産馬を連れてきたからだといわれています。
こうして釧路産馬の基礎がなされました。
釧路に馬が導入されてから明治30年頃までは、すべて土産馬、北海道和種で占められていました。
粗食にたえ、寒さに強くしかも持久力があって長命なのが特徴です。
身長は四尺二寸(約1メートル28センチメートル)と小型でしたが、気候風土に適して頑丈なため、駅逓馬や農耕馬として広く活躍していました。
明治22年、熊牛村で競馬会を開催。
これは集治監が中心となって官民合同で行われた「川上共同競馬会」で、この行事は集治監が移転するまで続けられ、年を追うごとにさかんになっていきました。
娯楽的な要素だけでなく、馬の改良を促進する効果もあったのです。
出場馬は25~26頭、走行距離は四百四十間(約796メートル)から一千五百間(約2750メートル)で賞金は一等が8円から25円。入場料は上等10銭、普通5銭でした。
まだ町並もととのわない小さな村で、活気にあふれた競馬会が開かれたのは、当時の移住者たちの意気込みと景気の良さの証明かもしれません。
産牛馬組合法が公布されたのは明治33年です。
3年後、全道では10番目に川上産馬組合が設立されました。
共同放牧場で村内の馬約700頭の放牧をおこない、さらに道庁から種牡馬トロッター種エートラ号の貸付を受けて、改良繁殖につとめました。
明治39年、川上産馬組合は釧路産馬組合の第四支部になり、種牡馬の配当がはじめられました。
この頃から熊牛村では馬産振興会が活発になり、標茶に国有種牡派遣所が設置されてからは、村内の保有頭数は一千頭を超えていたといわれています。
道庁貸付種馬ハクニュー号
馬は村民生活の身近な存在
明治34年に集治監が網走に移転してからの標茶は往時の勢いはなく火が消えたようなありさまでした。
さびれた川宿のまちとなった標茶に、新しい息吹を注いだのが軍馬補充部です。
集治監の施設や用地が明治40年に軍に移管され、翌41年から軍馬補充部川上支部が発足。
軍馬補充部とは軍馬の供給、育成、購買をはじめ資源調査を担当する軍機関です。
この川上支部の占めた土地は総面積三万町歩。
釧路川をはさんでその用地は弟子屈や別海にもわたる広大なものでした。
軍馬補充部は日清戦争のあと白糠に、さらに日露戦争のあとに標茶に設けられたもので、満州やシベリアの零下30度にもなる厳しい寒さに耐えられる強い軍馬を育てるのが、目的です。
軍馬補充部川上支部全景
標茶は気候風土の点で、最適な条件を満たしていたのです。
二歳馬を民間から購入し五歳まで育成訓練して、軍隊に送りこむのが軍馬補充部の使命でした。
馬を飼育する農家では、軍馬に合格することは大きな名誉で経済的にも大助かりなこと。
赤飯をたき、隣近所の人たちや知人をよんで宴を開いて祝いあいました。
ちなみに、大正12年から昭和12年ころまでの約14~15年間、軍馬は一般馬の約1.5倍から最高6倍の高価格で買い上げられていたそうです。
馬産釧路の名声を日本中に広めたのが、馬の神様といわれた神八三郎です。
足が頑丈でがっちりした胸とたくましい筋肉をもつ「日本釧路種」をつくりあげるなど馬種の改良や畜産組合の創設、大楽毛馬市の開設等、馬産王国の基礎を築いた人物です。
標茶の阿歴内は大正4年の入地後から神八三郎の指導によって馬産に力を入れ、熊牛村最大の馬産地域に成長しました。
標茶、磯分内、虹別、御卒別、沼幌、久著呂、茶安別、塘路など各地で馬産が行われましたが、特に阿歴内は全国的に有名な大楽毛市場に近く、昭和5年の標茶市開設まで近くに市場を持たなかった他地域に比べて、有利な条件をそなえていました。
生産された馬は軍馬として軍馬補充部に買いあげられたほか、役人や医師、僧侶などの乗馬用、さらに大正時代いから普及したプラオを用いた農耕や運搬用として幅広く利用されていました。
馬産は熊牛村の経済を支える重要な産業だったといえるでしょう。
馬を多く所有している人は、資産家であることを意味していました。
これらの人の中には、市街や部落を通じて指導的立場にあった人が少なくありません。
馬を飼育したり、所有した人は農家や畜産家ばかりではなく、もっとも有利な投資として、あらゆる職業や階層でお金にゆとりのある人々が馬を購入し、畜産家に生産や育成をゆだねていました。“村民総馬産家”といっても大げさではないほどだったのです。
市街の店頭には常に部落のための馬車が停められていて、排泄した馬ふんが乾いて風で飛び散っても、村民は大して気にしなかったそうです。
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