MENU

閉じる

閉じる


町のなりたちは集治監から

トップ > 行政情報 > 標茶町の概要 > 歴史 > 町のなりたちは集治監から

囚人たちによって道ができていった

標茶に集治監が設置されたのは、明治18年のこと。
当時は社会不安が原因で囚人の数が増加していました。
収容施設の増設と北海道の開拓を目的に、明治十四年に樺戸集治監、翌十五年に空知集治監、その三年後には釧路集治監が次々と開設されたのです。
収容されたのはいずれも全国の監獄から送られてきた刑期10年以上の重刑囚ばかりでした。
開設された年の囚人の数は192人でしたが、もっとも多かった明治二十九年には1,371人になっていました。
その当時の収容者は有期徒刑が695人、無期徒刑が649人、さらに有期流刑12人、懲役終身者65人でした。
1,400人近くも囚人を収容した大規模な監獄だったのです。

現存最古と思われる集治監のスナップ写真

現存最古と思われる集治監のスナップ

これらの囚人たちを擁するために行刑官史も最低190人から最高280人を数えました。
明治29年では、分監長1人、書記9人、看守長7人、監獄医2人、看守187人のほか、教誨師1人、傭12人、授業手(作業を指導する人)5人の合計224人が任務に就いていました。
また明治32年の記録によると、560万坪の広大な敷地の中に、庁舎1棟、官舎18棟、獄舎19棟、工場5棟、倉庫11棟が置かれていました。
監房は本造平屋造りで、中央に廊下が設けられていたそうです。
このほか、看守教習所、演武所、精米場、看守合宿所、炊所、浴場、舟小屋など93棟の建物があり、塀は板造りや棚、土塀などで囲んでいました。
囚人の仕事は明治19年、跡差登硫黄山で硫黄を掘ることから始まりました。

硫黄を運搬する囚人たち(明治28年)の写真

硫黄を運搬する囚人たち(明治28年)

しかし噴出する蒸気や亜硫酸ガスの発生など、その作業は困難をきわめ、明治20年11月に硫黄採掘の労役を中止しました。
このほか、釧路川浚渫、標茶・厚岸間道路、標茶・釧路間道路、硫黄山・網走間道路、厚岸屯田兵舎、大津・伏古間道路、網走・上川間中央道路などの土木建築をはじめ、釧路集治監から釧路郡役所まで16里の電話線の架設などが、囚人たちの手によっておこなわれています。
当時、日中でも暗くうっそうとした密林や原野に道路を切り開いた苦労は、言葉ではあらわせないほどたいへんなものでした。
熊が行き来する未開の地であり、気候も厳しく、そのうえ、開削地に食糧が届かないことも多かったようです。
まさに囚人たちの血と汗と涙によって、開墾されていったといえるでしょう。
こうして、釧路を基点とし、標茶を中継地とする道路網が急速にできていきました。
これにともなって、旅籠や料飲店などの商業も栄えて、次第に街並みも整って生きました。

また、集治監は土地の開墾ばかりではなく自給自足のため、大麦、大根、小麦、牧草、黒麦、馬鈴薯、大豆などを栽培しています。
水稲も明治20年に試作していますが、霜の害のため成熟しなかったようです。
そのためしばらく中断していましたが、明治28年から再び試作をおこなっています。
やはり結果は思わしくありませんでした。
桑苗の栽培をし、養蚕も試みたそうです。広大な土地を耕作するため、プラオやハローなどの器具や、馬などを使って大規模な農耕を展開していました。
さらに森林内の200万坪を牧場として、家畜の飼育もおこなっていました。
明治30年には農耕、乗馬用の馬が90頭、牛20頭が。明治32年には豚86頭がいたそうです。
春から秋までは開墾と農作業、冬場は木材を切り、炭焼きや農具の修理などをしていました。
集治監の囚人たちは設置されて以来道路づくりなど重労働を続けていましたが、明治27年以降は大規模な外役はなく、もっぱら農耕と内役が中心でした。

大井上輝前と原胤昭

集治監の歴史の中で、大きな役割を果たしたのが大井上輝前と原胤昭です。
大井上輝前は釧路集治監の初代典獄として、明治18年から4年11ヵ月、標茶でその任務にあたりました。
明治22年1月に川上郡役所が設置されると、大井上は郡長と川上警察署長、さらに不動産登記官も兼任。
熊牛村の行政、司法にたずさわり、本町の基礎を築いたひとりです。
原胤昭は大井上輝前にのぞまれて明治21年に教誨師として着任しました。
「我が国監獄改良の第一人者」といわれ、その生涯を不幸な犯罪者にささげた人物で、キリスト教の信者でした。
硫黄採掘作業の囚人たちの惨状を知り、硫黄山から囚人を引き上げさせる働きをしたのもこの人です。
大井上輝前、原胤昭、さらに空知集治監の教誨師で後に遠軽町に恵まれない子どもたちのための家庭学校を建てた留岡幸助らは、厳しい囚人運動の廃止に立ち上がり、人権を守る運動を繰り広げたのです。

明治18年に開設した釧路集治監は、明治20年には釧路監獄署、明治23年に釧路集治監、翌明治24年に北海道集治監釧路分監と数度名称を変え、ついに明治34年に16年間にわたる歴史を閉じて網走分監に移されました。
これが現在の網走刑務所の前身です。
集治監は開拓、経済、産業に数々の実績を残しました。
明治21年、塘路にあった熊牛村外4ヶ村戸長役場を標茶の集治監内に移転さらに警察分署、公立病院、郵便局、日本銀行熊牛支金庫などの官公署や公共施設が次々に設置されました。
標茶に集治監が置かれたことが、今日の標茶のいしずえになったといってもよいでしょう。

標茶墓地の雑草の中に、誰からも忘れられたまま置かれていた囚人の墓が、昭和28年に釧路刑務所と標茶町によって“標茶集治監死亡者の碑”として建立されました。
厳しい重労働や病気などによって、集治監がその歴史を閉じるまでの間に505人もの人々が亡くなっています。
町のこれまでの発展を思うとき、これらの人々の苦労と努力を忘れる分けにはいきません。

標茶集治監死亡者の碑の写真

標茶集治監死亡者の碑

お問い合わせ先

標茶町役場 総務課デジタル推進係
〒088-2312 北海道川上郡標茶町川上4丁目2番地
TEL 015-485-2111 FAX 015-485-4111

更新情報

ページの先頭へ